よろず屋小隊

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コワいぜ、現代の大映映画『ゴーン・ガール』

新年もあけましておめでとうございます。

調子乗ってブログを開設したはいいものの、先月19日を境に全く更新しておりませんでした(汗)。正に三日坊主、というところですが、久々の投稿です。

 

さて、新年一本目の映画は大好きな『ダーティハリー2』を初めて吹替で鑑賞し、映画館一本目は巷で評判となっている『ゴーン・ガール』だ。これは『セブン』『ファイト・クラブ』『ドラゴン・タトゥーの女』などなど新作を撮る度に話題となる男、デビッド・フィンチャーの新作。ベン・アフレックロザムンド・パイクの共演で、妻の失踪事件を巡るサスペンス映画、と宣伝されている。淀川長治風にあらすじを言うと

コワイですねー。アメリカの田舎で夫婦が仲良く、暮らしている。綺麗な奥さん、ロザムンドパイク、色っぽいですねー。その奥さんが結婚記念日にいきなりいなくなる、家が荒らされてい る、怖いですね。そこでベンアフレック、旦那さんが探すんですねー、でも、もっともっとコワイことが、段々段々分かってくる。怖い怖い映画です。

な約2時間半、『2001年宇宙の旅』と同じ長さだがあまりにも物語が二転三転し、すべての場面がストーリーに絡んでくるのでトイレに行きたくても行けない、ある意味苦痛な映画だが、内容は実に壮絶なものでトイレも忘れてしまう程に引き込まれる。恐らくこの映画のブログや感想文を書いている人々は皆同じ苦悩を抱えていると思う。何を書いてもネタバレになってしまうのだ!と言うわけで

 

以下は若干ネタバレあり。

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見終わった者の多くが言うがこの映画は怖い。結婚どころかその前段階さえ(以下略)な筆者ですら、見終わると何だか女性にビビッてしまいそうになる。カップルとか夫婦で見に行くと物凄い空気が漂うこと必死な「お前は何を考えている」で始まる不信と狂気の2時間30分、映画的に至福の時間だが内容は物凄くダークだ。あまりにダークにやりすぎて後半はブラック・コメディになっている、このやり過ぎ感がイイ。その面、終盤はちょっとサスペンスとしては無理やり感があって違和感があるが。

映画館で見ながら思い起こされたのは昔の日本の映画監督、増村保造だ。このオトコは大映という1回倒産した映画会社に所属し、1950年代から70年代にかけて多くの映画を撮った。東大を二回卒業したウルトラインテリの彼はイタリアに留学して映画を学んだ経験があり、そのせいか家族や道徳、倫理といった縛りを物ともせず、自分自身の欲望を忠実に追い求める人間たちの映画を撮った日本では異色の巨匠。特に若尾文子とは多くでコンビを組み、彼女を大スターにした監督としても語られるのだが、『ゴーン・ガール』なんだか増村の得意としたジャンル、もっと言うと「大映」という映画会社が得意とした映画の数々に雰囲気がそっくりなのだ。

夫と妻の平凡な夫婦生活が一転し、男の愚かさと女の恐ろしさをこれでもかと描き、ハッピーエンドを拒絶した静かで救いの無いラストの『ゴーン・ガール』。ストーリーは全然違うのだが結婚生活に不満を募らせた妻が夫を殺す『妻は告白する』を

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連想させるし、女の怖さをトコトン描いた『不信のとき』っぽい部分も

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後半登場する。つまり若尾文子大映映画のことだ(笑)。単に女の恐ろしさをモンスターチックに男目線で描くだけではなく、女に加えて、ひたすらに愚かな男の性の両方を笑い飛ばす大映映画と根本が同じに見える。

なるほど妻エイミーは恐ろしい。だが同時に夫の無神経さも相当にアホなもので、妻の不満を次々と生む夫の様子も欠かさず描かれる。復讐とか嫌がらせの域を超えて気の狂ったサイコ犯と化していく妻と、どこまでもアホな夫が地獄を見そうになるも、女性の刑事や妹を介して自分の愚かさと向き合って、事件を解決しようとする様子が平行することで、男と女の両性のそれぞれの特徴、欠点が次々と浮き彫りにされていくので、男女どちらが見てもそれなりに納得したり、勉強になる部分がある映画と言えるのではないだろうか。もう一点のポイントはマスコミ批判だろう。映画全編を通して、アホで感情的な視聴者に肩入れし、偏向、差別的な報道を集中して行い、状況が変わると平然とさっきまで非難していた相手を賛美する側にまわる無神経で、謝罪が出来ない愚かなメディアが実にいやらしく登場する(あの女キャスターの実に嫌なこと!)。日本もアメリカも全く変わらない。そのメディアが却って助けになってしまう皮肉も実に見事。

ま、男から見ると男性キャラクターは全員役立たずのアホで、女性は約一名を除いて皆男よりは二段階も三段階も上をいっている「男はバカ」を嗤うコメディ(エロもある!素晴らしい!)として存分に楽しめたのであります。ベンアフレックも、ベンの父ちゃんも、男の警察官も、黒人の弁護士も皆アホ揃い、いやになっちゃう。

最後に、全編登場して色々と目撃しながらも空気のように家にいる可愛いネコ。二人が可愛がっているという点で夫婦の唯一の共通点というのがなんとも。

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アニメーション「就活狂想曲」

来年度から就職活動に変化が起こる。いわゆる選考開始日が3ヶ月後倒しになり、15年3月から、内定を出す日は8月1日からとなるようで、巷の学生は大慌てだ。なぜ大慌てかというと、前例が無いから。ふつうはゼミなりサークルなりの上級生のスケジュールを参考にしたりするものだが、今回は結局いつから準備すればいいのか、どう行動すればいいのか皆目見当が付かず、しかも経団連に入っていない会社などの一部は全く別のスケジュールで選考をやるのだ。雑誌、新聞やセミナー等ではインターンの重要性が強調されたりで、筆者含め「とりあえずやっとこうぜ!」といった感じで各々が説明イベントに行ったり、インターンに行ったり、教室で四季報を広げたりとしている。筆者のようなTHE文系学生は信じられないほど行動的な学生や、運動バリバリのリア充間違い無しの学生と対面したりで、それぞれ苦労されていることだろう。ナムアミダブツ。


アニメーション「就活狂想曲」 - YouTube

それはさておき、真新しいお話ではないが昨年から話題の「就活狂想曲」という動画をご存知だろうか。東京芸大で2年前に作られた短編で、外人風に言えば”HAHAHA!!!!!”というべき快作。流されるままに周りと同じように就活に巻き込まれ、自分を見失っていく女子学生の姿が「四畳半神話体系」を彷彿とさせるイラスト(パクリではない。インスピレーションというべきだろう)とアニメの利点を生かした縦横無尽な場面移動・カメラワークで描写される。就活イベントに集結する黒一色で同じ顔をした学生たちと社員、協調を謳いながらも周りを蹴落として自分を売り込むことに必死な学生たちの姿は誇張に次ぐ誇張を加えられ、もはや化け物。ネットでは必ずしもリアルな姿ではないという批判があるが、それはちょっと違う気がする。「ザ・シンプソンズ」「サウスパーク」などでお馴染みの誇張された自虐風刺作品、ブラック・ユーモアに満ちたコメディだ。その割りに真に迫っているのが現代日本の救えないところなのだが・・

日本ではカリカチュアを施したブラックコメディーが今一つ普及しない傾向があるので、本作の存在は心強い。日本人の学生が見て文句ナシに面白いし、人によっては意気消沈も止む無しといったところだが、個人的には外国人の感想を聞いてみたいもの。日本の美点ばかり強調するテレビ番組、本の氾濫には若干ヘドが出るので、こういった現状を「嗤う」ものがもう少し出るとええのに。無ければ作ればいい、という話ではあるんだけど。

 

面白すぎるぞ『窓から逃げた100歳老人』

大学のサークルで知り合った男に紹介されて以来、私は新宿のとあるサロンに時々通わせていただいている。有名百貨店の小さな一角にあるそのお店は、土日にもなると日本全国からやってくる多種多様な顔で賑わっている。そこのマスターが太鼓判を押された小説が『窓から逃げた100歳老人』だ。

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正直、最近ここまで面白い小説にお目にかかった記憶がない。舞台は現代のスウェーデン。100歳の誕生日を迎えた主人公、アランが老人ホームを脱走し、偶然持ち逃げしたスーツケースに入っていた大金を巡る事件に巻き込まれていくだけでも面白いのに、アランの波乱万丈の生涯が随所に挿入される。若き日のアランは爆発物のスペシャリストとして、スペイン内戦でフランコ将軍の命を救ったと思えば、アメリカで原爆開発に貢献してトルーマンと酒を飲み交わし、国民党を支援すべく特命を帯びて宋美麗と中国に渡り、何故かスターリンと会食し、金日成毛沢東に会ったと思えば、ドゴールとジョンソンの会談に顔を出したりする。20世紀の歴史の随所に現れるアランの奇想天外な冒険が、一切の矛盾なく展開するのだ。

次はどこに行くのか、誰が出てくるのか、どう過去の冒険が繋がってくるのか、読みながら楽しみで仕方なくなること請け合いである。「人生、何とかなるさ」とマイペースに生きる主人公たちの姿を前に、日ごろの悩みなど吹き飛んでしまう。ヘンテコな100歳老人の、ある種ホラ話に等しい冒険が、ウィットに富んだ文体で綴られる至福の400ページ。オリジナルはスウェーデン語だが、英語版からベテランの柳瀬尚紀が絶妙な翻訳を行っている。

 

スウェーデンで映画化され、大ヒットを記録し日本でも『100歳の華麗なる冒険』として公開されている。早く観ねば。

インターステラーの衝撃

クリストファー・ノーラン監督インターステラーを遂に見た。SF映画と言うと昨年に最新技術を駆使した『ゼロ・グラビティ』が話題となり、3D効果と音響に圧倒された記憶も生々しいが、実質一年と経たずにまた新たな傑作が生み出された。それも今回は単に年間ベストだとかの問題ではなく、SF映画史上に燦然と輝き続けること請け合いの名作である。ここでは既にご覧になった方向けに、思ったことを書き連ねてみる。

 

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<以下、ネタバレに言及しています>

もしSF映画に限らず、古い洋画を見ることの多い人は本作を観た時、強烈な「懐かしさ」を感じたハズ。一種のアメリカの原風景であるトウモロコシ畑は『フィールド・オブ・ドリームス』、ゆっくりと滅亡する人類に『渚にて』(今回は砂嵐だが・・)、地球滅亡を防ぐべく宇宙に出る主人公の姿は『宇宙戦艦ヤマト』にダブるし、極めつけとして全編が新世代の『2001年宇宙の旅』といった印象なのは町山氏の解説にある通りである。また生物のいない星で一人ぼっちのマン博士の悲愴は『火の鳥 未来編』を思わせる。これらの懐かしさの入り混じった要素が、最新鋭のSFX・・と思いきやホンモノに拘った実物撮影、しかもフィルム撮影だからたまらない。ハンスジマーの音楽と相俟って全編鳥肌立ちまくり、男泣き、SF泣き必死である。逆にSF要素(ワームホール相対性理論、浦島太郎効果、冒険、未知の生命体、●次元!)に嵌れない、興味の持てない人はアウト(そういう人とはトモダチになれそうがない・・・!)と思いきや家族愛が物語の中心なので、人を選ばず見ることができるハズ。

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さて『2001年』と比較される事が多い本作だが、アプローチとしては大幅に異なる。

『2001年』では「モノリス」で人類に武器を与えた知的生命体が、宇宙にまで進出した人類に新たな試練を与える。木星軌道上にあるモノリスを探査すべく向かうディスカバリー号では、コンピューターのHAL9000が暴走し、ボーマン船長以外を皆殺しにした挙句、最終的に勝利した船長が高度な生命体に進化「させられる」。あのロココ調の部屋でボーマンは一人、老けていき死を迎えようとした瞬間、スターチャイルドに変わって映画は終わる(小説も)。『2001年』は人類の進化の物語であるが、進化を促したのも進化の儀式を行うのも未知の生命体であり、人類は自らの進化を証明するのみである。

さて『インターステラー』はどうであっただろうか。ここでは人類そのものの進化に関わる未知の生命体は登場しない。主人公の家に現れる異変は、『2001年』の視聴者ほど未知の生命体によるメッセージと思うかもしれないが、真実は驚くべきものだった。土星ワームホールを作ったのは恐らく未知の生命体であろうが、「彼ら」は一切姿を現さないばかりか、人類の進化を手助けすることもしない。ここで進化をするのは、ワームホールを抜けて別の宇宙に新たな惑星を捜し求めた挙句、ブラックホールの中で新たな理論を発見し、驚くべき手段で地球に伝える人類そのものであり、あくまで能動的に、自己の力で高次知的生命体に進化するのだ。「彼ら」は一切の存在を表さず、どこかで見守っているのかもしれないし、或いは惑星ソラリスに何の意志も無かったように、人類に何かをしようと考えてもいないかもしれない。ここは想像する他無いが、それも心地よい。最近の映画は何でもカンでも説明過多が目に付くので、こういった映画には好感が持てる。

『2001年』は公開時にナレーションや解説がバッサリカットされたので分かりにくくなっているが、冒頭の骨が核ミサイルを搭載した衛星になり、技術の粋を集めたコンピューター(HAL9000)が人類を滅ぼそうとする点で、技術の過度な発展への警鐘を鳴らす映画でもある。

東西冷戦下で来るべき「技術」の未来を予見したのがキューブリックとしたら、ノーランが描くのは技術が無用の長物と化した未来である。何らかの戦争を経て、食料不足に怯えるアメリカの姿であり、軍隊が存在を消し、途上国も多くが姿を消し、人々は砂嵐と疫病に怯えながら生きている。食料不足といっても『ソイレント・グリーン』みたいなヘンテコな代替手段を生む程の技術も人口もなく、原始的な植物を栽培する農夫こそが最も偉大な職業と化している。そんな技術によって滅亡の淵に追いやられた人類を、ノーランは大胆に救済する。それも人類自身の手で。

ここでは長い旅に出て発見した「理論=技術」が人類を救済する。『2001年』が技術が人類を危機に陥れる前日談だとしたら、『インターステラー』は技術が人類を救う後日談だ。あの愛嬌あるTARS・CASEコンピューターは人類に反逆することはなく、誰よりも英雄的な活躍を見せる。むしろここで主人公の試練となるのがマット・デイモンだ。人間本能に訴えかける両者の対決はHALとの対決に引けをとらないインパクトがある。

徹底的に科学的なアプローチに基づく宇宙描写に圧倒され、時空を超える「愛」に感動 し、そしてSFの偉大さ・面白さに酔いしれる。「愛」とか言うと安っぽく見えるかもしれないが、4年をかけて緻密に練りこまれた脚本は一見の違和感も全て回 収してのける。劇場で観れる内に見ないと後悔する点で『ゼロ・グラビティ』に全く引けを取らないばかりか、内容的には圧倒的に優れているので、是非。

 

それにしても最新の科学・物理学に基づいて描かれたワームホールや宇宙が全然『2001年宇宙の旅』と変わらないことに、キューブリックアーサー・C・クラークの恐るべき先見の明を改めて思い知る映画でもありました。ノーランもキューブリックもホントに凄い。『インターステラー』最大の衝撃。

 

 

 

 

 

”劇薬”エンタメとはこういうものだ 李龍徳『死にたくなったら電話して』

まるで自殺を食い止めるお話みたいだが、間逆である。この題名でいいのか、と疑問に思う反面、この題名で大正解とも思う、絶妙なタイトルチョイス。表紙イラストが微妙なのが残念。

ツラだけはそこそこ良いが実に冴えない三浪男と、キャバ嬢の出会いと同棲、そしてとてつもなく変わっている彼女と過ごす内に変わっていく男。だが変わったのは男だけではない。やがて物語は現代の心中モノの様相を呈していく・・。色々な女と付き合った経験があるイケメン三浪男が、大して口も上手くないのに女とソッコーで関係を持ってしまう導入部は不快以外の何物でもない(嫉妬以外の何物でもないです)が、2人の関係が深まってからは一気に読ませる。女流作家が死んでも書くことのできない小説だろう、あまりにも男が書いた小説だ。これは弱点でもあるが、ゆえに男性読者には心地よい。前半部はメンヘラ女に溺れる生活、共依存とはこういうものなのだろうか、と勝手に想像してしまう。後半は後半で壮絶な破滅が展開するが、全編に渡って実に淡々としているのが清々しい。

 

多くの読者はこの2人に大幅に感情移入することはあまりないと思う。だが恐ろしいことに私は主人公の男にも、初美というキャバ嬢にも共通点を見出してしまう。先日「劇薬エンターテイメント」と宣伝されている中島哲也の『渇き。』を見たが、あんなのとは比にならない。人によっては真の”劇薬”成り得る本ゆえに、何か人生に渇きを抱いていたり、鬱屈、自己嫌悪、ルサンチマンを抱える人は読むべきである。そして絶望するのだ。色々と拗らせると筆者のように、2人の破滅的関係に憧れさえしそうになるが、結局かくの如き御伽噺は御伽噺、生きていかねばならないと思わせる辺り、並々ではない小説である。なお筆者は『仁義なき戦い 広島死闘篇』の大友の名言

「わしらぁ、うまい飯食って、マブいスケ抱くために生まれてきたんじゃないのぉ」

座右の銘なので(爆)、自分で死ぬなどとんでもないという考えの持ち主だが、コレはコレでいいものだ。

 

なおマニア御用達の名作『ナイトメア・シティ』を見ながら書いております(笑)。何度見てもこのダラダラした破滅ストーリーはクセになるのですよ。画像左はゾンビ隊の襲撃を全く緊張感のない顔で見つめる大根役者(褒め言葉)ヒューゴ・スティーグリッツ。チプリアーニサイコー、レンツィサイコー。

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12月8日、もとい『新・仁義なき戦い』

2月8日とは何の日か、と訊かれて答えられる若者は皆無な気がする。仮に答えてもネトウヨだったりするのだから救いようがないのだが、8日は日本海軍による真珠湾攻撃の日である。アメリカ時間だと7日なので向こうでは”December 7th”として語られるアメリカにとって「屈辱の日」、日本にとっては8月15日への道の始まりという重要な日な筈だが、専ら「終戦記念日」は派手に宣伝されてもこっちはピクリとも宣伝されない。さて筆者は基本的に8日は太平洋戦争に纏わる戦争映画、

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例年は『トラ・トラ・トラ』を見るのが毎年の勝手な慣わしなのだが、昨日はゼミの課題とか云々で残念ながら見れなかった。週末に見ます(笑)。

代わりに見たのが『新・仁義なき戦い』(爆)。明日返さないといけないからネ。

これは伝説の5部作のヒットに懲りずに東映が1作目を焼き直した代物。仁義シリーズ本家に及ばない完成度でも年間9位のヒットになっちゃうから不思議である。あまり良い評判を聞いてなかったのだがどっこい、普通に十二分に楽しめる娯楽やくざ映画である。文太がメクラの傷痍軍人のふりをして標的を襲撃する不謹慎極まりないオープニングから掴みは最高で、その後も山守(金子信雄)と青木(一作目で松方が演じたが、ここでは若山富三郎)の対立を中心に毎回出てくる面子によるお馴染みの抗争が展開する。毎回素晴らしい見せ場を持つ拓ボンは渡瀬にケンカを吹っかけて一瞬で目を潰され、田中邦衛はどこまでもオロオロし、若山アニキは松方の30倍くらいの貫禄と迫力で他の俳優を食い、梅毒末期でパーと化したエースの錠は当分忘れられそうもない怪演だし、池玲子はいつも通り魅力的だ。

普通に考えて良作なのだが、確かに見終わって本家5部作と比べるとどこか霞んでしまう。今回の12月8日にかこつけたみたいになってしまうが、どうも『新』には深作監督の戦争への強烈なアンチ・テーゼが欠けている。文太と池玲子演じる朝鮮ピー(朝鮮人売春婦。超蔑称)の話など盛り込める要素はあるのだが、実に中途半端で終わってしまう。暴力に生きる彼らを生んだ戦争という「暴力」の要素は冒頭くらいしかなく、個々の人物のバックグラウンドも薄いため、今一つ本家ほど入り込むことが出来ないのだ。広能改め三好の文太もキャラクターが描ききれず、ただのバイオレンス野郎と化している感はいがめない。

とは言っても余計な描写をすっとばして抗争に徹したノン・ストップ・アクション(広島弁)として見れば本作には何も問題はない。ちなみに何故か、池玲子が文太のところから飛び出した時に若山が言うセリフが一箇所無音になっている。どうも「朝鮮女だから気性が荒い」というようなことを言っているので、何かアレな表現なのだろう。(朝鮮ピーはOKなのだが・・・)東映はアレな表現でも音声カットはしない会社であるし、WOWOWで放映した時も同じだったということは残っている原版のフィルムから欠落しているのか、或いは何らかの事情が働いているのかもしれない。

 

 

 

 

『ウォール街』の皮肉 反道徳の輝き

名作と名高い『ウォール街』。オリバー・ストーン監督というと有名で評価も高いが、必ずしも一般受けする作品を撮るとは言いにくい。ベトナム戦争三部作にしても他のにしても若干観るものを選ぶ映画が多いと思うが『ウォール街』は誰が観ても実に面白い。株や証券に興味が無くても、知識が少なくてもキャラクターたちの騒々しい日常に釘付けになる。いい映画の共通点で脇役がよい。ウィリアム・ワイラーの映画で地下室で女を飼育したりと奇行でお馴染み(爆)のテレンス・スタンプの大物投資家も素晴らしいが、ハル・ホルブルックが出てるのが個人的にツボ。あまり有名ではないが『ダーティハリー2』の助演や、『ミッドウェイ』のチョイ役。実力はありそうでしがないオジサンを演じさせたら一品。

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ところでストーンは過剰な物欲への警鐘として作ったにも関わらず、若い観客層がマイケル・ダグラス演じる投資家に憧れて金融界に向かうという、間逆(!)の現象を生んだことを嘆いたそうだ。お気持ちは分かるが、そりゃそうだろう(ダグラスだし)。手段を選ばぬ物欲の権化は魅力的すぎる(ダグラスだし)。犯罪者や狂人同然の悪役は往々にして良心を持つ主人公よりかっこいい。映画を通して自分の奥底にある「現実では決して行わないけどやってみたいこと」を見出し、楽しむ観客の心理が働くのか。反道徳的(往々にしてそれは「動物的」と同義だ・・・まあ道徳の定義を始めたらキリはないですが)なことに引き寄せられるのか。

極論を承知で言うと、救いようの無いゴミ野郎ゆえに『仁義なき戦い』の山守は人気があるといえる。もっともそれはキャラクターが人間性を持っているのが最低条件であって、『私設銀座警察』の恒彦アニキみたく人間性を失ったモンスターだと観客も沈黙するほかない。

若干テーマが被る『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は『ウォール街』を更に過激に俗物的にした映画だが、あのとんでもない主人公に憧れない男はいないだろう。最高の女に酒、家、金、車、とりあえず全部。アレでもマーティン・スコセッシはメッセージ性を込めた映画だと妙にしきりに説明していたが、明らかに楽しんで撮っているし、観客も楽しんでいる(笑)。何はともあれ、ダグラスのピカレスクロマンとしても一級だし、ダグラスに単細胞にも熱狂した当時の若者は見落としたのだろうが、ラストのマーティン・シーンの一言はそれ以上のインパクトを与える。人のモノ(金)を動かすだけか、それとも自分自身で何かを生み出すか。生き方をも考えさせられる、優れた娯楽映画。